@article{oai:tsukuba.repo.nii.ac.jp:00033703, author = {古田, 高史 and Furuta, Takashi}, journal = {国際日本研究, Journal of International and Advanced Japanese Studies}, month = {Jan}, note = {1951年2月、福田恆存は、T.S.エリオットの『カクテル・パーティー』The Cocktail Party を翻訳刊行している。その翌年に発表された『龍を撫でた男』は、『カクテル・パーティー』を原型とする戯曲である。本稿では、『龍を撫でた男』と『カクテル・パーティー』の比較考察を踏まえたうえで、当時の福田の問題意識との関連を明らかにする。こうした作業を通じて、『カクテル・パーティー』が、劇作家としての福田の活動に与えた影響を見通すことを試みる。『カクテル・パーティー』と『龍を撫でた男』とは、精神科医であるライリーと家則が、ほかの登場人物たちを操っているように見えるという点で、類似した人間関係を取り上げている。しかしながら、ライリーの精神科医としての態度は変化しないものであるのに対して、家則には、「発狂」という結末が与えられている。本稿では、その原因を、両者における「作因」の位置づけの違いに求めた。ライリーは、自分の外に、自分を動かすものの存在を感じている。その結果、他の登場人物たちに対する精神科医としての立場を変化させることはない。一方で、ただ一人の「正気」である家則と、「気ちがひ」の登場人物たちとの関係は、いとも簡単に覆され、家則こそ、「気ちがひ」であると決めつけられてしまう。こうした家則と登場人物たちとの立場の逆転は、家則が、ただ一人の「正気」として、「自己を的確に追ひこむ」ことにより生じるものである。この点で、『カクテル・パーティー』から『龍を撫でた男』への変容には、「自己表現」を巡る福田の認識が込められていたと考えられる。さらに、本稿では、福田が、「自己表現」を巡り、『カクテル・パーティー』の詩劇という方法に着目していたことを指摘した。詩劇という発想は、福田の戯曲の礎となる発想である。そのため、今後、福田の戯曲とエリオットの戯曲や詩劇論との関係について、更なる考察が必要であると問題を提起した。}, pages = {35--46}, title = {<論文> 福田恆存の『カクテル・パーティー』受容 : 『龍を撫でた男』を中心に}, volume = {6}, year = {2014} }